2011年3月11日、原発が事故った。
以来日本では、いや世界中を巻き込んで、「原子力」に対して様々な意見・主張が飛び交っている。
危ない原発いますぐ停めろ!
いや、経済が立ち行かないから、原発を続けるべきだ。
原発はいけない、しかし今すぐ停めるのは現実的ではないから、10年後の脱原発を目指そう。
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国の一大事だ。イデオロギーにとらわれず、共に原発を停めよう!
いや、原発は差別構造の問題。それを直視できない右翼とは組めない。
あーあ、反原発カルトがまた騒いでるよ。。。
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僕は、
「それ以前の話」がしたい。いや、しなければならないと思う。
原子力の処遇を議論する前に。いや、その議論と並行しながらでもいい、
今、現在進行形で事故を起こしている福島第一原発を直視しよう。
目を凝らして、目を凝らして、よく見てほしい。
あの危険な場所は人間を必要としていて、そして実際に人間がいるのである。
あなたは想像できるだろうか。
本当に、想像できるだろうか。
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福島第一原発の事故では、広範囲に放射性物質がばら撒かれた。
福島原発周辺は勿論のこと、東京を中心とした関東圏や被災地・東北での放射線量も問題となっている。
「低線量被曝」「内部被曝」の危険性についての議論が盛んに行われている。
多くの専門家が発言し、「安全」か「危険」か、議論は平行線の様相を見せている。
実際のところ、低線量被曝や内部被曝が危険であるかどうか、僕にはわからない。
専門家ではないからである。
いや、専門家でもわからない問題だという感じがする。
これは、実は多くの人が思っているところなのではないだろうか。
僕はその議論自体は、全く否定しない。
大きな問題だ。危険なのかもしれないのだから。
しかし、その前に。
福島原発を直視してほしい。
あの場所は、文句なしに危険なのではないか?
大量の放射性物質が、まさしくそこから漏れ出ている、そんな場所である。
再臨界の危険も当然のことながら、ある。
そして、そこに人間がいるのである!
誰かが行かなければならない。
事故を一段落させなければならない。これは間違いない。
しかし、あんな危険な場所には、誰も行くべきではない。
これもまた、間違いない。
福島原発には、「誰かが行かなければならない。」
しかし、「誰も行くべきではない。」
この圧倒的な現実こそが、本当の「ニッポンのジレンマ」であり、
最も重く、議論されるべきものであると僕は思う。
「べき」論をいったん離れ、現実を見てみよう。
今、福島第一原発には「誰が」行っているのだろうか。
最も多いのが、福島第一原発周辺で暮らす人々であるようだ。
原発が誘致されて以来、原発での仕事の多くも地元の人々が担わされてきた。
大事故が起きても、それは変わりない。
また、原発周辺に限らず、貧困の中にある人々、
東京の山谷、大阪の釜ヶ崎などの「寄せ場」の日雇い労働者たちや、外国人労働者も多く駆り出されている。
時には、893を使ってでも。
彼らは皆、人間である。これは言うまでもない。
しかし彼らのうちどれだけの人が、自分の意志で行くことを決定して、福島原発に乗り込んだだろうか。
恐らく、殆どいないだろう。
福島原発に行く以外に仕事がないのだ。
彼らは福島原発に強制的に駆り出されたのだ。
そうして、福島原発の収束作業は進められていく。
端的に言えば、
「原発事故収束作業は、誰かに押しつけられている。」
行きたくもないのに、あの場所に行かされる。この気持ちが分かるだろうか。
僕にはわからない。
そこには、倫理性の欠片もありはしない。
このことが分かれば、社会運動において主張すべきことも見えてくるはずだ。
すなわち
「被曝労働の待遇改善」こそ、何よりもまず、真っ先に主張されなければならない。
原発を動かそうが停めようが、推進派だろうが反対派だろうが、全く関係ない。
それだけは「少なくとも」主張しなければならない。
現在の労働環境では、放射線防護も十分ではないし、賃金も恐ろしく安い。
本来ならば、収束作業に向かった人には、一生分の生活を保障するくらいの待遇を与えてもいいはずなのに。
全く不当だ。
僕が思うに、この被曝労働の大問題には、原発推進も脱原発も反原発も関係ないのである。
全員が被曝労働の待遇改善を求めるべきだ。
タブーにするなど、あってはならないことなのだ。
これが「それ以前の話」の一つめである。
・・・・
続きがある。僕の問題提起はこれでは終わらない。
以下は「それ以前の話」のさらに「それ以前の話」。ここからは哲学の領域に入る。
福島原発には、
「誰も行くべきではない」が、「誰かが行かなければならない」のであった。
これが現実なのであった。
では、「誰が」、福島原発に行く「べき」だろうか?
「誰も行くべきではない」ところに、「誰が行くべきだろうか」。
矛盾している。
しかし、この矛盾を乗り越えなければ、「倫理」が生まれることはないだろう。
僕は、「誰も行くべきではない」を覆すつもりは全くない。少しも譲らない。
そして、そこには「誰かが行かなければならない」のだから、
この状況は、もう既に
「終わっている」。
しかし、そのような状況だからこそ、倫理を生み出していかなければならない。
では、どうするか。
今、福島原発にいる作業員の人達は、収束作業を「押しつけられている」と僕は言った。
収束作業自体が存在すること自体、既に非倫理的だと思われるのは仕方ないとしても、
せめて、この「押しつけ」をやめてはどうか、と僕は提案したい。
「押しつけをやめる」とは、どういうことだろうか。
現在、収束作業を「押しつけられている」のは、主に経済的に弱い立場にいる人たちだ。
では、彼ら全員を経済的に救済すれば、「押しつけ」は解決するのだろうか。
否、そうではないだろう。
貧困がなくなっても、福島原発の収束作業は、依然として残るからだ。
「誰かが行かなければならない」。
「押しつけ」の反対の概念とは、何だろうか。
僕は、「押しつけ」の反対は、
「自ら引き受ける」ことであると思う。
この「自ら引き受ける」ことこそが、「押しつけ」をやめ、福島第一原発の収束作業に倫理を与えるための唯一の途であると僕は考える。
収束作業を「自ら引き受ける」こと。
それはつまり、
「私が主体的に福島第一原発に行く」、ということに他ならない。
「主体的に」収束作業を選び取る「私」によってのみ、収束作業を成り立たせなければならない。
それも「経済的に仕方なく」ではなく、「理性的に自ら」選び取る「私」によって。
したくもないのに、強制的に被曝労働をさせられること。
これこそが最も避けるべき、恐ろしいことだ。
そして、現実はそうなっているのだ。
ここで、僕が一番はじめに発した問いに行きつく。
「私は福島原発に行くべきか。」。
そう、僕は「私」なのだ。福島原発に行くことができ、それを主体的に、理性的に選択しうる「私」なのだ。
言うまでもなく、これは「あなた」にも言えることだ。「あなた」にとっての「私」は、「私」だ。
全ての人は、「私」であることから逃れられない。
ここで、こういう反論があるだろう。
「君が原発に行くことなんてない。君はそれほどの問題意識を持っているのだから、社会運動で被曝労働者を救えばいいじゃないか。」
確かに、社会のつくりを変えることによって、収束作業の在り方を大いに改善することはできるだろう。
労働条件改善はもちろん、収束の方法・道程・目標を考え直し、変えることによっても、被曝労働を減らすことは可能であろう。
先ほど述べたように、僕は「社会運動においては」被曝労働の問題は真っ先に訴えられるべきであると考えるし、そういった運動が不可欠だ。
しかし、それでもなお残る問題があると僕は考える。
まず、いくら収束作業の条件や在り方が改善されたとしても、福島第一原発が危険な場所であることは変わりなく、しかもそこでの被曝労働はなお必要なものである。
「誰も行くべきではない」が、「誰かが行かなければならない」。
その中で、「誰が行くのか」を考えなければならない。
この構図までは、社会運動では壊せないのではないか。
つまり、僕が提起する「主体性」の問題は依然として残るのだ。
さらに、忘れてはならないことがある。
僕たちがデモで歩いたり、抗議をしたり、安全な場所で議論を行っている今この瞬間にも、
福島第一原発では多くの人が被曝している、ということだ。
それも、「僕が問題としている労働条件で」、だ。
これが現実だ。
本当にリアルタイムの問題なのだ。
事故はもう起こってしまったのだ。
「今」「この瞬間」の収束作業自体を改善することは、原理的に不可能だ。
そのためには、「今」「この瞬間」に、議論し、運動し、訴えていかねばならないのだから。
「今」「この瞬間」に、福島原発で収束作業をしている人達を救うには、どうすればよいか。
僕は、
「私が主体的に行くこと」によって果たすしかないと考える。
収束作業を「押しつけ」られている人が働くよりも、
主体的に収束作業を選びとった「私」が、彼らの代わりに働くほうが、遥かに善い(マシな)ことであると僕には思えるのである。
僕は(それなりに)安全な東京で大学生活を送っていて、
しかし他の誰かは福島原発に行っている。行かされている。
このことが、僕には不当なことに思えてならない。
なぜ、僕ではないのだろう。
僕が福島原発に行かない理由など、本当にあるのだろうか。
命に軽重など、ないのだから。そうでしょ?
「なぜ私は原発に行っていない?」
僕は主体だ。
僕にとって、主体は僕でしかない。
僕は福島原発の収束作業を自ら選びうる、この世で唯一の主体だ。
僕は誰かの被曝を肩代わりすることが出来る。
僕はこう問わざるを得ない。
「私は福島原発に行くべきか?」
・・・・
以上が僕の問題提起である。
原発推進・反対の前に、日本の未来など語る前に、
まず、「誰も行くべきではない」が「誰かが行かなければならない」福島原発の収束作業こそが、真っ先に問題にされ、考えられなければならない、ということ。
同時に、福島原発に「誰が行くのか」ということについて、真剣に、真正面から考えなければならない、ということ。
そして、「私」(僕)が福島原発に行くべきはないか、ということ。
これは前回の記事でも言ったが、僕の問題提起はあなたに被曝労働を勧めるものではない。
というのも、僕もあなたも、誰かに被曝労働をやらせる権限などないからだ。
僕はそれを許さない。
それでは既に「主体的な選択」ではなくなってしまうから。
むしろ僕は、誰にも福島原発に行って欲しくない。
僕の言うことを真に受ける必要も、勿論ない。
しかし、あなたにこれだけはお願いしたい。
あなた自身が、福島原発を直視してほしい。
あなた自身が考えてほしい。
結果、どのような考えをあなたが持とうとも、それはあなたの自由だ。言うまでもないけども。
あなたと議論がしたいと思っている。よかったら僕と話しましょう。
法政大学文学部哲学科4年 関
(『導火線』収録の私の文章を、ブログ用に改変したものです。)